【17】収入源について

生きる上で必要な資源を確保するための活動。

 

人が生きていくためには衣食住などの資源が必須で、人間社会でそれら資源を獲得するためには交換用のお金を用意する必要がある。

 

生きていく上で必要なお金の額を事前に計算することはできない。人生で必要な資源や資金はどのくらいなのか考えても、そもそもいつどんな資源を獲得する必要性が出てくるのかは予想でしかなく、交換のレートは一定ではなくいつどう変わるかわからない。

 

事前に計算するとしたら、自身のこれまでの人生経験や日常的な感覚から導き出される必要性と現在の交換のレートから算出した想定でしかない。

 

生きる上で睡眠や食事が行える衣食住やインフラが使える生活を行い最低限死なずにある程度の生活が可能になるとしたら、試算上、月20万で家賃5万程度の収入があればできる想定なので、それを基準とする。

 

目的が生きていくだけなら最低限の生活を維持していけば良い。過剰な浪費をせず、必要なことをコンパクトに揃えるだけでいい。しかし人生に彩りを添えるためには余暇活動の活動資金を確保する必要があり、生きる上での最低生活費以外の資金がいる。

 

また、豊かな生活を送れたとしてもいつ時代が変わって社会の機能が失われるか、いつ自分が重い病を患うかわからない。全てに対して完璧に対策する事はできないものの、いざという時の想定外の出費に備えてある程度の貯蓄を確保できた方がいい。

 

つまり、生活を送った上で余暇活動を行いつつ、その状態で常に黒字貯蓄を続ける状態が必要になる。まずこれが収入源に関する活動として目指すべき状態だ。

 

 

そしてさらに、お金を得る活動をする上で、お金を得る以外に大事な要素がある。それは自由時間と活動体力を確保することだ。

 

収入源の活動については、十分な資金を自身の所有物として獲得することが第一の目的だが、その上で時間と体力を余らせなけないと何の意味もない。

 

何故なら資源を得るための活動だけでは生存のためだけに生きていることになり、気がついた時には自身がやりたいことができないまま人生が終わってしまいかねない。自身の行いたいと思う活動を行えないと、生きている間に受ける苦しみと得られる喜びが釣り合わない。

 

人生を生きる上で様々な体験を通じて充実感や喜びといった彩りや豊さを感じたりできないならば、様々な苦痛を許容しながら生きる意味がない。生きる上で苦痛や困難は避けられないが、それのみで生きることは苦しすぎる。人は苦痛だけで生き続ける人生を受け入れるような生き物ではないと思っている。少なくとも私は許容していない。

 

人間は感じる苦痛が大きすぎるとそれを何とかして排除しようと躍起になる。それは人として当たり前の習性だ。その中で他者との衝突が生じることもある。本来望んでいない、やむなく生じてしまう出来事だ。そうならないようにするにはまず根本的に自身に許容範囲を超える苦しみを与えないこと。

 

その上で、生きる上で辛いことがあっても同様に喜びや楽しみを感じることができる状況を維持することが大切だ。程々の苦楽が調和していて人生を謳歌できるのが丁度良い。

 

だから働いて得たお金で仕事の疲労を回復するだけの日常を繰り返し続けるということはしてはいけない。もしそのような日常を繰り返し続けるようになってしまうのであればその状況を変えること。

 

何のために働く上で生じる苦労を許容するのか。それはお金を稼いで生存できて、さらにその日常の中で余暇活動を行い豊かさを感じられるからだ。そうでないと何のために金を稼いでいるのかわからない。ただ生きているだけになってしまうのは釣り合っていない。

 

それ故、お金を稼いだ上で余暇活動を行うための時間と体力を余らせるのは必須である。

 

また、必要な分を稼いだらそれ以上お金を稼ぐことに時間や体力を使わないこと。もちろん仕事するのが楽しいのであればそれは自身が充実することとしてやればいい。

 

仕事をすると体力を使うのは当然のことだが、使いすぎて精魂尽き果てるまで働いてはいけない。そもそも仕事をするために生きているのではなくて、生きるための手段として仕事をしているだけだからだ。

 

本来目指すのはお金を稼いだ上で生活に余力を持って、余暇活動をして人生を充実させることができる状態。その上でさらに様々な余暇活動を行い人生経験を得て、入るお金の量や稼ぐ効率を上げていければ良い。

 

働いて金や時間を回復に使うだけの人生にしてはいけない。

 

 

豊かな人生を生きていくためにも、それを実現するのにお金が必要だ。

生きる上で、十分な稼ぎがあることが人間社会で生きていくのに必要な資源を確保するための条件だ。